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写真館(76枚)
- 形態
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山城(338m/-)
- 歴史
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文治5年(1189年)河村秀清によって築かれたと云われる。
秀清は源頼朝の奥州藤原氏征伐で功をあげ、成羽の地頭職を得て鶴首城の築いたと云われるが定かではない。
本格的な築城は三村家親によるもので、天文2年(1533年)頃といわれる。
家親は星田から成羽に進出すると毛利氏と結び永禄3年(1560年)に庄高資の松山城を落とし居城を移し、鶴首城には三村親成・親宣父子を置いた。
備前・美作にも侵攻した家親だが永禄9年(1566年)宇喜多直家により暗殺された。
跡を継いだ三村元親は翌10年には明禅寺合戦で宇喜多氏に大敗し、庄氏による反乱もあり一時衰退するも勢力の回復をはかり、再び庄氏を下す。
しかし、宇喜多氏が毛利氏と結んだことで三村氏と毛利氏は決裂する。対して三村氏は織田信長と結んで対抗しようとしたが、鶴首城主三村親成・親宣父子が反対し、三村親成・親宣父子は毛利氏に通じる。
毛利氏は毛利輝元を総大将として備中に侵攻し、国吉城、鶴首城、楪城、荒平山城、鬼身城などを次々と落とし三村元親を松山城に攻め自刃させると最後の拠点である備前国常山城を落として三村氏は滅亡した。
天正3年(1575年)鶴首城には再び三村親成・親宣父子が入城した。
関ヶ原合戦後は岡氏、山崎氏と続くが麓に成羽陣屋が築かれ山城は廃城となった。
- 説明
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太鼓丸を経て登山道を尾根まで一気に登りつめる。
ここから右手に行くと馬場(七ノ壇)に着き、さらに登ると二ノ壇に着く。一ノ壇は周囲を石垣で固めていたようであるがほとんど崩落(破却?)している。その南側には三ノ壇、四ノ壇、五ノ壇となりそれぞれはニの壇の東側から武者走りで通じている。
ニノ壇の西下には六ノ壇がある。
五ノ壇の南側には堀切があり、そのはるか奥には武士の池があるそうだ。これを見に途中の峠?辺りまで進んだのだが、ここから更に直線距離で500m、比高150m近くあり、「立ち入り禁止」の札も見えるので引き返した。
気をとり直して登りつめた尾根から北側にある二の丸へと行く。
ニの丸は一段高くなった所で南側に一段あり、ここには円形に石組みされた井戸跡らしきものがある。頂部から北側に向けて段が続くが明瞭ではなく、この先尾根伝いに下山したが堀切は確認できなかった。
- 城主
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三村氏
- 案内
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成羽小学校裏の道を行くと案内があり、縄張図入りのパンフレット?が置いてある。そこから太鼓丸を経て尾根まで登山道があり主郭へ続く。
- 所在地
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岡山県高梁市成羽町下原(鶴首山)
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付近の城址
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1.0km 備中・三村氏居館
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3.6km 備中・ツガン丸城
4.0km 備中・阿部深山城
5.0km 備中・馬之城
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9.1km 備中・中村城
9.2km 備中・小笹丸城
9.5km 備中・勝負城
9.9km 備中・土居山城
※距離はおおよその直線距離です。 海・川・山などの地形および交通手段は全く考慮していません。
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- 周辺施設
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- 最終訪問日
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2007年11月
- 縄張図
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現地案内板より
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