織田信勝は織田信長の弟織田信包をの孫である。織田信包は慶長3年(1598年)柏原三万六千石の大名となり、その子信則、信勝と三代続いたが、慶安3年(1650年)に織田信勝が嗣子なく没したため柏原藩織田家は断絶となった。その後、天領を経て元禄8年(1695年)に織田信休が大和国松山より二万石で入封しているが、信休は織田信長の弟織田信雄を祖とする家系である。この為、信包を祖とする家系を前期織田、信雄を祖とする家系を後期織田とも称す。
織田信勝の墓(供養塔)は成徳寺の境内にあり、その隣には初代織田信包、二代織田信則の新しい供養塔もある。成徳寺は織田家の菩提寺であった見性寺が、柏原藩の改易とともに衰退していたものを再興し、信勝の戒名にちなんで成徳寺と改称したものである。