本庄繁長は越後国本庄城主で揚北衆として独立勢の高い一族であった。 上杉謙信に従属してからも反乱を起こしたりしたが、御館の乱ではいち早く上杉景勝に味方し、同族で長尾景虎方となった鮎川氏と戦った。その後、一時改易となるなどしたが上杉家臣として再び登用され会津転封後は守山城代を経て福島城代となり、関ヶ原合戦時にも伊達政宗の軍勢から福島城を守った。 慶長18年12月20日(1614年)に没した。享年は74とされ長楽寺が菩提寺となった。
長楽寺には本庄繁長の木像が安置されており、9月の祭礼のときに一般公開されるという。境内には本庄繁長一族の墓として二代充長、三代重長、四代政長の墓がある。