慶長6年(1601年)に藤懸永勝によって築かれた。
藤懸氏は尾張の織田氏一族で、関ヶ原合戦前には藤懸永勝が丹波国氷上郡小雲で一万三千石を領していたが、関ヶ原合戦で西軍に属して田辺城攻めに参加したため、六千石に減封され丹波国何鹿郡上林に移された。藤懸氏はその後分家を輩出して四千石の大身旗本として明治まで続いた。
藤懸陣屋は生貫山城の西麓に築かれていた。
生貫山城の駐車場のほうに登って行くと「城山の里上林山荘」という広い平場があるが、この南下の民家の建っている場所が藤懸陣屋の位置である。現在は民家の敷地であり遺構は不明であるが、南側に虎口らしき地形が確認できる。