承久3年(1221年)太田昌明によって築かれた。 昌明は比叡山延暦寺の僧であったが源行家を討った功により、源頼朝より但馬国太田荘を得て太田氏を名乗り、承久の乱の後は但馬国守護に任ぜられた。
亀ヶ城は太田川北岸に聳える標高172mの山に築かれている。現在は市指定史跡として主郭まで道が付いており、城内は公園化されているわけではないが、管理の行き届いた山林で遺構も良好に残る。
2007年に訪れたときには無かった縄張図入りの案内板が登山道入口に設置されており、そこから山頂まで整備された道が付けられている。
亀ヶ城は山頂部の東西二郭を中心に築かれており、設置されている縄張図では西側を曲輪iとしているが、個人的には東が主郭のように見ている。
西曲輪群は西端に一段小高い櫓台状の土壇があり、東に一段、北に一段の腰曲輪が付く。南西に伸びる尾根は二条の大堀切で遮断し、北と南にそれぞれ畝状竪堀群を設けてる。この畝状竪堀群は極めて残存具合が良く見所である。
東曲輪群は南北に長い曲輪で北に分厚い土塁を設け北西に虎口を開く。虎口の外側に一段小郭が付いているのが特徴である。この東西両曲輪の間は堀切のようになっているが、北麓へ降りる道があり、入口には石積が見えていることから虎口としての機能があったと思われる。
東曲輪から南へ続く尾根は現在の登山道がある所で、南に開く谷間に面した両尾根に曲輪を配している。
国道482号線に面して「史跡亀ヶ城」の標識が建っており、ここに駐車できる。ここから北の集落内の道路を東へ進んでいけば、北の畑の所に縄張図入りの案内板が設置されており、そこから登山道が付いている。(地図)