中世山岳寺院である金蔵寺は弘仁年間(810年〜824年)に空海が瑞雲山金蔵寺を開基した。寺領は三千石を有したと云われる。
大永8年(1528年)には金蔵寺の僧兵が雲巌寺を攻撃している。金蔵寺の衰退は永禄11年(1568年)織田家の武将森蘭丸による焼き討ちによるものと「山本氏由来書」は伝えるが、『豊岡市の城郭集成』では天正8年(1580年)の羽柴秀長により第二次但馬侵攻の誤伝ではないかと推測している。
金蔵寺城は虫生集落の東方に聳える標高390m程の山に築かれている。
金蔵寺城は大きな山岳寺院が城砦化したものである。 山頂の南側の谷間には塔跡などが残る伽藍跡が残り、石積や井戸、池跡などが残されている。また、尾根の北東側山腹にも同じく平段が連なっている。尾根上部分は通路程度には加工されているが、基本的には自然地形のままで、おそらく風を防ぐための措置であろう。
金蔵寺城の主郭は北の山頂部にあり、この部分だけは完全に山城仕様で、北尾根に二条の堀切、西・南山腹に畝状竪堀群、南東の寺院側にも一条堀切を設けて遮断している。曲輪内は小さな段が付いている。
西麓の虫生集落(むしゅう)から参道が付いている。虫生神社前の道を東へ入って行くと舗装路の終点に駐車場がある。ここが参道入口。(地図)
未舗装林道の参道を進んで行くと谷間の奥に顔を削がれた石仏が一基ある。ここから右奥の谷間へ沢沿いに進んで行くと、奥につづら折れになった山道があり、それを上り詰めると南西尾根に出る。