但馬 生野城たじま いくのじょう

城郭放浪記


△トップに戻る

TOP > > (但馬国/兵庫県) > 生野城
Tweet
但馬 生野城の写真
掲載写真数
形態
山城(601m/290m)
別 名
なし
文化財指定
なし/不明
遺 構
石垣,土塁,郭,堀
城 主
山名氏
歴 史

築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に山名時熈によって築かれたと云われる。

応永34年(1427年)但馬国守護山名時熈は将軍足利義持の命によって播磨国守護赤松満佑を討伐するため、播磨との国境に近い生野に山城を築き、その拠点としたと考えられている。

天文11年(1542年)山名佑豊は生野城の山城の麓に平地を築いて銀山を支配した。この平城は総構は掻上げ堀にて、三階の天守を構え隅々に矢倉を附け、大手は北国町の裏、搦め手は井ノ口という有様であったという。

弘治2年(1556年)山名氏の有力家臣であった竹田城の太田垣朝延が謀叛を起こして生野城を乗っ取った。その後、織田信長の命により但馬に侵攻した羽柴秀吉によって支配された。

江戸時代は生野城の平城部分が生野代官所となり銀山支配の拠点となった。

説 明

生野城は市川の北岸に聳える標高601mの古城山山頂に築かれている。 現在は「びわの丸健康公園」から登山道があり、山頂一帯は木が伐採されて公園になっている。

生野城は山頂にある主郭から四方に伸びた尾根に曲輪が連なっている。西に続く尾根が主線で、主郭から西に二段、さらに南西下に一段の曲輪がある。主郭の周囲と二郭の西面に石積遺構が一部残存している。

南へ伸びる尾根はやや広い曲輪があり、更に南に小段が続いて堀切が一条ある。その先はやせ尾根になっている。

主郭から北東下に降りると南を除く三方に土塁を設けた長方形の曲輪があり、北東隅部が櫓台状に幅広になっている。ここから東尾根に向かって曲輪が連なり、東端は広い曲輪であるが、南側は土取によって消滅している。

先ほどの土塁の残る曲輪から北へ続く尾根は、裾の部分に屈折した土塁があり、切岸との間が空堀か通路になっている。この土塁から北に二段の曲輪が付いている。

案 内

「びわの丸健康公園」から登山口があり案内板が設置されている。びわの丸健康公園は来迎寺の北上にあり、但陽美術館の北側、来迎寺の西側の道を進むと道標が出ている。

最寄り駅(直線距離)
1.4km 生野駅
7.2km 新井駅
7.8km 長谷駅
所在地/地図
兵庫県朝来市生野町口銀谷字古城山
付近の城(直線距離)
0.9km 但馬 生野平城
0.9km 但馬 生野代官所
5.3km 但馬 岩洲城(南城)
5.6km 但馬 岩洲城(北城)
最終訪問日
2011年3月
TOP > > (但馬国/兵庫県) > 生野城