築城年代は定かではないが文和年間(1352年〜1356年)頃に今川範氏によって築かれたと云われる。 南北朝時代に北朝方であった遠江国守護今川範国は美濃国青野原合戦の功によって駿河国葉梨荘の地を与えられ、駿河国の南朝勢力である安倍城主狩野氏らを駆逐して花倉城を築いて拠点とした。花倉城を居城とした今川氏は範氏の後、今川泰範、今川範政と続き範政の時に駿府に移った。
天文5年(1536年)今川氏輝が病没すると花倉遍照寺の僧恵探(今川氏親の子で義元の異母兄)と富士善得寺の僧承芳(後の今川義元)の間で家督相続争い(花倉の乱)が起こった。恵探は花倉御曹子とも呼ばれ今川氏の重臣福島氏に擁立される形で家督相続に名乗りをあげた。 恵探方は駿府の今川館を襲撃したが失敗し、方上城を占拠して義元方と戦ったが、方上城は朝日山城主岡部左京進親綱によって攻め落とされ、ついで花倉城も落城し恵探は落ち延びたが普門寺で自刃して果てた。
花倉城は勝谷の再奥にある標高297mの山頂に築かれている。
主郭は山頂北側にあって南北に長く三段で北側が高い。西側にも小曲輪が付く。主郭の南側に堀切で隔てて二の丸がある。二の丸は北から西側にかけて土塁が残り、その南側にも堀切を設けている。
なお南の勝谷の入口付近にある偏照寺付近には今川氏館があったとされ、今川範泰の菩提寺である長慶寺付近には家臣団の屋敷が多くあったとされる。松井屋敷の写真を参照。
国道1号線バイパス藪田西icで降りて県道215号線を北上して葉梨小学校を目指す。小学校の北側を西へ曲がり少し進むと川沿いに花倉城ハイキングコースへの道標がでている。ここから道標に従って進んでいくと茶畑の農道を利用して大手口にある登山口に至ることができる。ほとんど山頂付近まで車で登ることができる。
最寄り駅(直線距離)