応永27年(1420年)頴娃兼政によって築かれたと云われる。
頴娃氏には頴娃古城を居城とし、開聞宮下司職と頴娃郡の郡司を兼任した平姓頴娃氏と、それが滅びた後に頴娃氏を称した肝付一族の伴姓頴娃氏があり、兼政は後者の初代である。
頴娃城はポルトガル商人j・アルヴァレスによってヨーロッパで紹介された最初の日本の城だという。
伴姓頴娃氏は久虎が没して久音が継ぐと頴娃、山川、指宿の所領を没収され谷山へ移されたため、頴娃の地は島津の直轄領となっている。
頴娃城は頴娃集落の南東、荷辛路峠から北へ伸びた尾根に築かれている。
本丸は南東端で、西下を林道が南北に貫通しており、この林道を挟んだ両側に城域は広がる。主郭部は石積を伴う土塁があったが、草が茂っていて石積は確認できない。主郭から空堀を挟んだ北が二郭、その西側には枡形を持つ曲輪などが存在するが、全体的に藪深いので、色々見るなら冬時期でないと厳しい。
頴娃小学校の東側から荷辛地峠のある山道を登っていくと途中に案内板がある。林道を少し北に入っていくと本丸の案内があり、そこまで車で行くことができる。
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