築城年代は定かではないが、康平年間(1058年〜1065年)に三浦為通によって築かれたと云われる。
長らく三浦氏の本拠であったと伝え、治承4年(1180年)石橋山合戦で敗走した三浦義明は、衣笠城で大軍を迎え撃ったが、三浦義澄以下一族を安房へ逃し、自ら城を守って討死したという。
三浦氏は鎌倉時代に有力な御家人として反映したが、宝治合戦によって一族の大半が滅亡し、わずかに残って三浦介を継いだ佐原氏も三浦半島の南側の一部を領有したに過ぎず、衣笠城は廃城となったという。
衣笠城は衣笠icの北西にある大善寺の背後の山に築かれていたという。現在は公園として整備されている。
大善寺から登って行くと山の上に至り、すり鉢状になった平地で北側がやや高く土塁のような地形がある。そこから西へ登って行くと石碑のある平段があり、背後は岩を削った地形になっている。ここが衣笠城とされるが、とくに城郭遺構として顕著な遺構ではない。平安時代末期から鎌倉時代の山城がどの程度の遺構を残すのか、また本当に山城であったのかも謎である。
大善寺まで車道がある。
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