築城年代は定かではない。古代においては隼人・熊襲が籠った所と云う。
その後、諏訪氏の後裔である上井氏の居城となり、天文17年(1547年)島津氏に降った。島津氏に降った上井氏は薩摩国永吉に移される。その後裔として「上井覚兼日記」で著明な上井覚兼がいる。
城は山塊の南端に位置する小高い丘陵に築かれている。 山上は東西に尾根が伸び、東西両端に曲輪群がある。西の曲輪群は公園として整備去れている為か土塁などの遺構は見当たらず、東端に櫓台状の高まりがありポールが建っている。三段程の広い削平地があり、周囲に帯曲輪が残る。
東西を繋ぐ尾根には一条の堀切があり、他にも堀切が石積によって埋められたような箇所が残る。東の曲輪群には土塁や石積が残るが西の曲輪よりは狭い。
城山の南中腹にある南公園から遊歩道が設けられている。
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