建久5年(1194年)菱刈重妙によって築かれたと云われる。 菱刈氏は大隅国菱刈郡菱刈発祥で藤原氏の後裔を称す。 菱刈重妙は保元元年(1156年)後白河天皇の勅命により菱刈両院(太良院と牛屎院)七百余町歩を賜った。建久4年(1193年)源頼朝の命により、菱刈重妙は下向し居城として築いたのが太良城とされる。
菱刈重妙の長子太郎重隆は馬越城を築いて馬越氏、三男三郎重茂は曽木城を築いて曽木氏を称し、菱刈氏は次男で嫡子の太郎次郎重実が継いだ。
弘治2年(1556年)菱刈重豊は、島津氏によって攻められた蒲生城の蒲生氏を救援するため、大軍を率いて北村に陣取った。この戦いは激闘となり、菱刈重豊は自刃して菱刈氏は壊滅的な打撃を受けた。
その後、菱刈氏は島津氏に降り、永禄4年(1561年)頃には菱刈重猛は島津貴久より栗野や横川城などの加増を受けた。しかし、永禄9年(1566年)重猛が没すると、幼小であった嫡子千代丸(後の重広)の後見人として重猛の弟隆秋が実権を握ると、再び島津氏に背いた。
永禄10年(1567年)島津貴久が大軍を率いて侵攻すると、菱刈氏は馬越城に籠もって対抗したが、馬越城は落城、菱刈一族は城を捨てて大口城へ逃れた。菱刈氏は肥後の相良氏などと結んで島津氏に抵抗したが、永禄12年(1569年)菱刈隆秋は相良氏の斡旋で島津氏に降り、人吉へ去った。
太良城は本城小学校の南西にある丘陵に築かれており、現在は本城町民の森として公園になっている。
太良城は南北に連なる丘陵にあり、北端部に一ノ丸、南に二ノ丸があった。土取などによって遺構は損なわれており、一ノ丸は殆ど残っていない。二ノ丸も土塁のような土盛りを残しているが、これも公園化によるものなのか遺構なのかはっきりしない。
本城小学校から南へ進むと太良城の碑が建っており、ここから遊歩道が付いている。入口脇に路側帯があり駐車できる。
最寄り駅(直線距離)