築城年代は定かではないが鎌倉時代に馬越太郎重隆によって築かれたと云われる。 重隆は太良城主で菱刈氏初代重妙の長子で、馬越を領して馬越氏を称した。
永禄10年(1567年)菱刈隆秋が島津氏に背くと馬越城に籠城して、島津貴久の軍勢を迎え撃ったが敗れ、菱刈一族は城を捨てて大口城へ逃れた。島津氏は大口城攻めの拠点として馬越城を利用した。菱刈氏は肥後の相良氏などと結んで島津氏に抵抗したが、永禄12年(1569年)菱刈隆秋は相良氏の斡旋で島津氏に降り、人吉へ去った。
馬越城は菱刈小学校・市役所菱刈庁舎の北側にあり東西に伸びた丘陵に築かれている。
馬越城は北端部に東西に長い本丸、その南に二の丸を配している。 本丸は東西に長く西端が一段高くなり、ここに石碑が建っている。この辺りはちょうど急斜地工事を行っていたのだが、かなり山が削られているようである。
本丸の南に深い空堀があり、二ノ丸が続く。二ノ丸は広く東西に長い。部分的に土塁の付いた曲輪があり、帯曲輪や腰曲輪のような削平地が付いている。
山道が付いているが入口には案内がないのでわかりづらい。 県道から勝蓮寺の方に入り、すぐ先を右折すると城山を巡る車道が続く。右折して進むと左カーブとなるが、このカーブミラーの脇から入る山道が本丸の空堀を経て本丸まで通じている。(登り口の地図)
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