文明2年(1470年)平田重宗によって築かれたと云われる。 平田氏は肝属郡串良を領し岩弘城主である。
明応4年(1495年)重宗の子兼宗の時専横な振舞いから島津忠昌の怒りをかい、陣之尾にて戦ったが敗れ、忠昌の命を受けて平田氏を攻めた島津忠朝の所領となり、忠朝は叔父の平山忠康を城主とした。
永正17年(1520年)肝付兼興が大軍をもって鶴亀城を攻めたてたが、城主平山近久はよく守ってこれを撃退した。
大永3年(1523年)肝付兼興に応じた新納忠勝が取り囲み、島津忠朝は城兵の命を助けることを条件として和議を結び、城は明け渡され後に肝付氏の所領となった。肝付氏が没落すると島津氏の所領となり島津忠長が地頭となった。
城は串良川の西岸にある丘陵に築かれていた。串良小学校の東にある丘陵が本丸跡であるが、大半の曲輪はシラス採取によって消滅した。