応永18年(1411年)平田重宗によって築かれたと云われる。 平田氏は桓武平氏で平宗盛の後裔といい、平田親宗の時に島津氏久に仕え子の重宗の代に肝属郡串良を領して岩弘城を築いたと云う。
重宗・氏宗・兼宗と続いたが、明応4年(1495年)兼宗の時専横な振舞いから島津忠昌の怒りをかい、陣之尾にて戦ったが敗れ城を明け渡して降伏したという。
城は串良川の東岸の西へ突き出した丘陵の先端に築かれている。
串良川に面した西側を除いた三方に空堀を巡られていたようであるが、北側は道路となっている。
城山の西側の道路沿いに案内板が建っている。