築城年代は定かではないが得田氏によって築かれたと云われる。 北西にある得田館の詰城として築かれたものとされる。
この城は日本城郭体系で「徳田城」として掲載されている城である。一般的には館開城と呼ばれており、石川県中世城館調査報告書でもこちらの名称が使用されているので館開城として紹介する。石川県中世城館調査報告書では、もう一つの館開城として館開神社にあるものが記載されているが、こちらは城館跡ではないと結論付けられているので、まとめて紹介する。
徳田城ともいわれる館開城は北東に伸びた丘陵の先端部に築かれている。主郭部は南北二郭で空堀で区画されている。南側の曲輪の南端には土塁が残り、南東側に虎口を開く。周囲には竪堀が多く設けられていて大小様々であるが、一般的な竪堀より大きく幅は数mに達するものもある。全体的に遺構は非常に良く残っている。
館開神社にある館開城は神社背後にある堀状の溝を遺構として城館跡とされているようである。石川県中世城館調査報告書によれば、この溝は神社の境界を示すための溝であり、それを示す伝承は残っているが、城館跡とされる伝承は残ってないことから城館跡ではないと結論付けている。