築城年代は定かではないが建武年間(1334年〜1338年)頃に中村六郎広重によって築かれたと云われる。中村広重は結城宗広の家臣である。
建武4年・延元2年(1337年)多賀城を維持できなくなった北畠顕家は義良親王を奉じて霊山城に立て籠もり、結城宗広の家臣中村広重も数万騎を持って霊山城の支城熊野堂城に籠もった。同年相馬松鶴丸(胤頼)は一族を動員して熊野堂城を攻め落とした。(熊野堂合戦)
永禄6(1563年)中村城代草野直清が謀反を起こした際には、相馬盛胤が中村城攻めの陣城として使用している。
熊野堂城は宇多川南岸の標高29.1mの独立丘陵に築かれていた。 現在山上は住宅地となって遺構は消滅、南麓にある熊野神社の境内に標柱が建っている。 以前には北側の麓に堀跡と見られる水田があったようであるが、これも消滅した。