築城年代は定かではないが南北朝時代に富沢日向守道祐によって築かれたと云われる。 富沢氏は葛西氏の傍系で、正平6年(1351年)岩切城合戦での功によって三迫富沢郷を賜り、鶴丸館を築いて富沢道祐と称した。
富沢氏は道祐を祖として明岩、直家、直綱、直景と五代続いたが、直景は天正18年(1590年)葛西大崎一揆で佐沼城での戦いに加わり、一揆方として戦い討死、富沢氏は滅亡した。
江戸時代になると仙台藩伊達領となり伊達政宗の五男宗綱が三万石を領して岩ヶ崎要害を居城とした。元和4年(1618年)宗綱が嗣子なく没したため、政宗の六男宗信が岩ヶ崎伊達家を継いだが、寛永4年(1627年)宗信も嗣子なく没した。
岩ヶ崎伊達家断絶後は石母田氏、田村氏、古内氏、茂庭氏と続き、元禄7年(1694年)に藤沢から中村氏が入部して以後明治に至る。
鶴丸館は栗駒小学校の北方に聳える標高100m程の山に築かれており、現在は館山公園として整備されている。
鶴丸館は山頂の主郭から南西と東へ伸びた尾根に曲輪を配した大きな山城で、畝状竪堀群もきれいに整備されている。江戸時代初期には山腹の辺りに居所を設けていたが、石母田氏の時代には現在の栗駒小学校の辺りに居館を移していた。
栗駒小学校の西側から上行寺の方へ登っていくと主郭のすぐ下にある駐車場まで車で登ることができる。