神護景雲元年(767年)に律令政府が造営した。奈良時代に律令政府が蝦夷(えみし)を治める政策の拠点として造営した城柵である。
宝亀11年(780年)には蝦夷出身の上治郡の大領伊治呰麻呂が伊治城で按察使の紀広純と牡鹿郡大領の道嶋大盾を殺害するという反乱(宝亀の乱)が起こった。さらに反乱軍は多賀城まで攻め上り略奪し放火した。
伊治城は一迫川と二迫川が合流する地点の西にある微高地に築かれていた。 現在は大半が宅地や田畑となって明瞭な遺構はほとんど残されていないが、富野小学校の南側にある築館町出土文化財管理センター付近に土塁と大溝の跡がわずかに残っている。