築城年代は定かではない。 延文5年・正平15年(1360年)山名時氏が南朝方に付いて美作に侵攻し、山名氏の部将小林重長が竹山城を攻略した。
明応2年(1493年)新免貞重は山王山城から竹山城に居城を移した。天文23年(1554年)貞重の子、新免宗貞のとき尼子氏の侵攻にあい一時所領を失ったが、弘治3年(1557年)再び取り戻した。
赤松氏に替わり宇喜多氏が台頭してくるとそれに従い、宗貞の子、新免宗貫は関ヶ原合戦で宇喜多氏に従って戦い敗れた。宗貫とその子宇右衛門はこの地を去って筑前へ赴き黒田長政に仕えたという。
竹山城は大原小学校の北に聳える標高430m程の山に築かれている。 現在主要部には無線中継施設などが建ち並んでおり、遺構は大きく損なわれている。
西の山塊から東へ伸びた先端の頂部に本丸が築かれており、太鼓丸・馬場・西の丸などがあったという。現在では無線中継施設や車道開通によって大きく改変されており主郭部は見るべき所がない。ここから400m程西にある峰が坊主ヶ丸と呼ばれ、ここに曲輪が残り、北と南に堀切が一条付いている。
東麓から舗装された林道が終点の駐車場まで付いている。 林道の入口は北と南にあるが、道標の出ている南側のみ舗装された道である。
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