築城年代は定かではないが小幡氏によって築かれたと云われる。 小幡氏は児玉党の一族で関東管領山内上杉氏に属しており、小幡憲重は箕輪城主長野業政の娘(妹とも)を室に迎えていた。
天文20年(1551年)関東管領上杉憲政が越後の長尾景虎を頼って越後へ落ちると、上杉氏に属していた諸豪族は越後の長尾氏、小田原の北条氏、甲斐の武田氏に別れ、小幡憲重・重定父子は天文22年(1533年)甲斐の武田氏に属した。これに対して長尾氏方へ付いた長野業政は留守中の国峯城を奪って一族の小幡景定を城主とした。
永禄3年(1560年)武田信玄は小幡氏に信濃国大日向で五千貫を与え市川馬之助兄弟などの南牧地衆を付けた。永禄4年(1561年)信玄は西上野に侵攻して国峯城を奪い返し、小幡氏を城主に復帰させた。
天正3年(1575年)長篠の合戦では小幡信真は赤備えの騎馬武者五百騎を率いて従軍している。この信真は小幡重定で、はじめ重定、武田晴信に仕えて信実、勝頼の代で重定、武田氏滅亡後に滝川一益に従って信貞、北条氏に従って信定と名乗りを改めている。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、小幡信定父子は家臣庭谷左衛門大夫に庭谷城と国峯城の守備を命じて小田原城に詰めたが、国峯城は上杉景勝の武将藤田信吉によって攻められ落城した。
城は標高428.4mの城山山頂に築かれた詰城部分と、北の下川に面して開けた谷間の平地にも外濠の遺構が残ってる。
詰城部分は山頂に権現社が建つ主郭があり、そこから東西に伸びた尾根に曲輪を展開する。全体的に山上の曲輪は非常に小さく、細尾根を堀切で遮断し、側面に多数の竪堀を設けているのが特徴である。
主郭から西へ二つの峰があり、それぞれ曲輪となっている。一番西の峰には「出丸」の標柱がある。
北東側の中腹に御殿平があり、その先も「城」と呼ばれる集落まで曲輪が続いているようである。
小幡より県道46号線小幡交差点を西へ進み、善慶寺交差点を曲って県道193号線に入り西へ進む。650m程進んで善慶寺原交差点を南へ曲り下川沿いに進めば道標がある。
林道は「城」集落を経て御殿平、さらに上へと続いているが、道は非常に狭く、一般車両はできればどこかに駐めて歩いて登る事をお勧めする。集落から林道へ入ると御殿平の辺りまで駐めるスペースはない。
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