築城年代は定かではない。元応2年(1320年)に信田小右衛門実正・小太郎実高父子が討死した記録が見性寺の寺記に残っている。
永正6年(1509年)小尾弥十郎が江草城を乗っ取った記録が「高白斎記」に記されている。 応永年間(1394年〜1428年)には武田信満の三男江草兵庫助信泰の居城で、見性寺に位牌と木像が安置されている。
天正10年(1582年)本能寺の変の後、旧武田領を巡って北条氏と徳川氏が争った天正壬午の乱では、北条軍が獅子吼城を占拠したが、服部半蔵率いる伊賀組と小尾衆など周囲の国人の夜襲によって落城した。
獅子吼城は塩川と湯戸ノ沢が合流する北東側にある標高788.4mの城山に築かれている。 この城は大半が石塁によって築かれている点が特徴である。
獅子吼城は尾根続きの北東側に向かって防御遺構が施されている。現在の入口である東の尾根には堀切が設けられ、いずれも北側の斜面に竪堀として伸びている。 虎口は横堀にした石塁の先端を櫓台状にやや幅広くし、それをぐるりと回り込んで入るようになっており、東の尾根からは直接入れないようになっている。
主郭は山頂にあり東西に長く東端が土塁となってやや高い。一段下を帯曲輪が巡っており、そこから北東側に腰曲輪が数段続く。この曲輪の側面は石塁が築かれており、それ以外も天然の岩肌で急峻な地形となっている。
虎口付近から続く横堀から一条の竪土塁が伸び、西側には二段の帯曲輪が付いている。さらに下方には、また別の竪石塁が伸び、一度西へ屈折してさらに下に続いている。この付近に炭焼き窯跡らしきものがあり、そこから北の根古屋へ降りるルートがあるが、このルート沿いにも一部側面に石塁のある竪土塁が続いている。
県道23号線沿いにある見性寺、あるいは国指定天然記念物の大ケヤキのある根古屋大明神を目指すのが良いでしょう。県道23号線から塩川を渡ると突き当たりに獅子吼城への道標があり、それに従って城山の東側に回り込むと城山への入口がある。車は一台程、入口の先に駐めるスペースがある。
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