築城年代は定かではない。この城が史料に現れるのは天文17年(1548年)で城主は長野氏一族の分部氏であった。
永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻で長野氏は信長の弟信包を養子に迎えることで和議となり、信包が天正8年(1580年)に安濃津城に移るまで、この上野城に在城した。
信包が津城に移ると再び分部光嘉が城主となる。織田信長が本能寺の変で倒れ、豊臣秀吉の時代になり信包が失脚すると、分部光嘉は秀吉から大名に取り立てられ一万石が与えられた。
関ヶ原合戦では分部光嘉は徳川家康に従って会津攻めに従軍していたが、石田三成の挙兵を聞いて伊勢に戻り、富田信高とともに安濃津城に籠城して戦った。この功によって二万石に加増された。
元和5年(1519年)分部光信のとき、近江国大溝に転封となり上野城は廃城となった。
上野城は参宮街道を見下ろす丘陵上に築かれており、現在は本城山青少年公園として整備されている。
主郭は方形で高土塁が巡り、北西隅に天守台を備えている。現在天守台には展望台が建てられ、そのなかに資料館があるが、開館期間がわずかしかないのは残念である。
主郭の周辺には一段低く曲輪群が拡がっており、一部土塁が残る。北の円光寺との間の部分は竹藪になっているが、このなかに高土塁や土橋、横堀が残っている。
車の場合、本城山青少年公園西側に駐車場やトイレがある。徒歩の場合、東麓の参宮街道から登るルートの道標が出ている。
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