享禄2年(1529年)に北畠氏から稲垣の地を与えられた川原田相模守実秀によって築かれたと云われる。
天正12年(1584年)実秀の子隆秀が城主であったとき蒲生氏郷によって攻められ落城、隆秀は山田野に逃れ、蒲生氏に内通していた岡村修理亮に与えられた。
稲垣城は垣内川に沿って南へ伸びた低丘陵の南端に築かれている。この丘陵には稲垣城を始め稲垣北城、稲垣西城が築かれている。
稲垣城は丘陵の南端から東へ伸びた尾根に築かれており、最高所に高土塁で囲まれた曲輪I1を設け、東の尾根先に向かって段曲輪を連ねている。
主郭は方形の高土塁で囲まれ東中央に虎口があり、土橋で曲輪I2に繋がる。北西隅部分が大きく掘り下げられているがその用途は不明である。西背後は堀切3で遮断しており、その堀がそのまま南と北へ回り込むが現状横堀とはならず、犬走り、帯曲輪状になって堀切2の下部と繋がる。
曲輪I2は馬出のようでもあり、東端に土塁と堀切1、南はスロープから東の曲輪群降りていくことが可能である。
曲輪I4はI5に通じる土塁スロープ、I5は南に虎口がある。さらに段曲輪が連なっており東端のI8のすぐ下は道路である。
主郭の西背後から北尾根に続く丘陵上には畑跡と思われる土塁や溝が多く残っているが、その中で堀切4とそれに面した土塁の部分は城郭遺構のようである。
どこからでも入ることができるが、稲垣城と稲垣北城の間の谷を東から入る道が整備されており、入口に道しるべが出ている。入口付近に路駐可能。
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