築城年代は定かではないが康永年間(1342年〜1345年)頃に愛洲氏によって築かれたと云われる。 愛洲氏の出自については諸説あるが清和源氏武田氏の流れを汲むとされる。
南北朝時代愛洲氏は南朝方として北畠氏に属し、大永7年(1527年)愛洲弾正親忠は家督を国忠に譲って玉丸城へ移り、北朝方と戦った。
天正4年(1576年)田丸城主で北畠氏の養子となった織田信長の子信雄によって攻められ愛洲氏は滅亡したという。
五ヶ所城は五ヶ所川の東岸の丘陵に築かれている。北から東へと五ヶ所川が流れ天然の要害となっている。
丘陵の北西端に主郭があり、二重の横堀が巡っている。主郭には低い土塁が一部残存し、東に虎口が開く。主郭の側面はほぼ垂直に切り立っているが一部には石積も確認できる。
主郭の東から南にかけて二重の横堀が巡っており南側は深い。主郭の北西側は岩盤を堀切で遮断しており、曲輪状になっている。
「愛洲の館」に展示されている模型を確認すると南側にも曲輪が展開していたようであるが、現状は果樹園や宅地になっているので遺構があるかどうか不明である。
北の五ヶ所川沿いには古井戸がある。
国道260号線の五ヶ所川に架かる橋の西側の交差点を北上し県道12号線沿いに北上すると、右川に「愛洲の館」がある。ここに駐車して石段を登り、左側へ行くと愛洲城、右側へ行くと愛洲氏館である。案内に従って行くと愛洲氏の墓所(塔頭)にも行くことができる。
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