築城年代は定かではないが北原氏によって築かれたと云われる。
飯野城主であった北原氏が支城として築いた城で、加久藤郷の中心的な城であったが、飯野城主となった島津義弘が久藤城を改修して加久藤城とし、広瀬夫人を住まわせたことから徳満城は加久藤城の支城となった。
応永2年(1395年)北原範兼と相良祐頼が酒宴中に争いとなって相刺死した事件はこの徳満城で起こっている。
徳満城は川内川と関川が合流する地点、南へ伸びた尾根の先端に築かれている。
徳満城は群郭式山城で北の県道が走っている部分で北の山塊から切り離し南を城域としている。城は西から高城、中之城(本丸)、小城と呼ばれる曲輪があり、深い空堀で区画されている。
中之城が本丸となる曲輪で高城との間の空堀から通路があり虎口になっている。内部は広大で小さな段差で南北二段になっている。
高城と中之城の間の大空堀に面して高城側に石垣をコの字に組んだ遺構が中段にある。井戸のようでもあるが、塹壕のようでもありなんだろうか。
北側の県道102号線沿いに案内板がある。入口はいくつかあるが、県道側から高城と中之城の間に入る道と中之城と小城の間に入る道がある。
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