永暦元年(1160年)真幸院の収納使であった日下部重貞によって築かれたと云われる。
南北朝時代になると日下部氏は没落し、肝付氏の庶流である北原兼幸が飯野城主となった。その後北原氏が代々続いて真幸院一帯に勢力を拡げたが、北原兼守が没すると家督争いとなり伊東氏によって所領は併合された。
一度滅亡した北原氏であったが一族の北原兼親が相良氏を頼って逃れていた。相良氏はこの兼親を当主として北原家を再興するべく島津氏や北郷氏と結んで真幸院へ侵攻し、馬関田城まで軍勢を抜いて伊東氏を追い払うと、北原兼親が飯野城主に返り咲いた。
しかし北原兼親は周囲からの侵攻を防ぎきれず、所領を守ることができなかったため、島津貴久によって薩摩国伊集院へ移され、飯野城には貴久の二男島津義弘が置かれた。
元亀3年(1572年)伊東氏が真幸院に侵攻し加久藤城を攻めたが容易に落城せず退陣した。木崎原で休憩していた伊東軍に対し義弘が300騎余りで攻め込み一時退却するも蒲田尾張守などの援軍を得て再び挑み大将伊東加賀守など錚々たる面々を討ち取った。この木崎原合戦でも義弘は飯野城から出撃している。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後は義弘の二男久保に飯野城が安堵されている。
飯野城は川内川北岸のシラス台地の上に築かれており、現在は亀城公園として整備されている。
飯野城は本丸、二の丸、三の丸、射場、物見曲輪などの名称で曲輪があり、このうち本丸、物見曲輪が公園整備され、射場が駐車場になっている。
シラス台地を利用した群郭式で本丸の北に東西に長い三の丸、東に二の丸がある。本丸と三の丸の間からは加久藤城に繋がる裏道が延びている。
木崎原古戦場はえびの市池島(地図)にあり、県指定史跡となっている。
南の入口に冠木門があり、その奥に駐車場がある。
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