慶長6年(1601年)伊東祐慶によって築かれたと云われる。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で、伊東祐慶は清武城主稲津重政に命じて西軍の大垣城に籠城していた縣城主高橋元種の支城宮崎城を攻め落とさせた。しかし、高橋元種は東軍に寝返って本領安堵となっていたため、宮崎城は高橋氏に返還され、稲津重政は責任を負わされる形で粛正された。
翌慶長6年(1601年)島津氏に対する備えとして築いたのが、この南郷城だと云われる。 しかし、元和元年(1615年)一国一城令によって廃城となった。
南郷城は細田川が大きく蛇行して日向灘に注ぐ、湾の入口に聳える標高122.4mの山に築かれている。現在本丸まで車道が付いており簡単に登ることができる。
南郷城は近年地元の有志の方によって木が伐採され整備が進められているようである。 本丸は北西側は見ていないが南西、南東、北東の三方に露出した石垣があり、隅石垣部分も露出している。かつて太平洋戦争時代に砲台が建設されていたことから多少改変があるようで、南東の石垣はその名残であろか。眺望の良い所に櫓台状の低い石段があり、スロープが付いている。車道の入口が虎口かとおもったがそうではないようである。
本丸から北へ伸びる尾根側に曲輪が続いており、途中から畑に変わる。北の道路沿いには伊東氏の墓地が残されている。
西側の中村神社から登っていく車道が通りやすい。
最寄り駅(直線距離)