築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487年)に島津氏によって築かれたと云われる。
文明年間(1469年〜1487年)頃は島津氏の家臣和泉隠岐守が守っていた。 永禄5年(1562年)伊東義祐が飫肥城を奪うと、その家臣平賀刑部少輔と落合加賀守を置いて守らせたが、島津忠親が飫肥城を回復すると酒谷城は孤立し、落合加賀守は討死、平賀刑部少輔は逃走した。
永禄11年(1568年)伊東義祐が再び飫肥を手中に収めると、長倉淡路守を城主とし伊東氏四十八城の一つに数えられた。伊東氏が島津氏によって日向を追われると島津氏は柏原常陸守を城主としたが、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐によって島津氏は敗れ、秀吉の家臣となっていた伊東祐兵がに曾井・清武が与えられ大名に復帰した。翌年には飫肥も与えられ、酒谷城は川崎権助、後に山田宗昌(匡徳)が城主を務めた。
酒谷城は酒谷川の南岸に聳える標高111m程の丘陵に築かれている。
深い空堀で区画された群郭式の山城で東西に伸びた丘陵に大きく七つの曲輪が連なっている。東端にあるのが酒谷神社の境内となっている曲輪で、そこへ繋がる林道はそのまま深い空堀の底を通っている。畑となっている曲輪もあるが、大きな空堀や土塁など遺構の状態は良好である。
東に神社へ登る階段があり、それを登るのがわかりやすい。神社の境内裏から林道があり、それがそのまま東西に続く堀底道になっている。
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