築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)に島津忠広によって築かれたと云われる。
飫肥城主であった島津忠広が支城として築き、家臣の日高源左衛門に守らせたが、源左衛門は伊東氏に降り、その後は度々島津氏と伊東氏によって争われた。永禄11年(1568年)伊東氏が飫肥城を奪取した後はその家臣川崎駿河守が入り伊東氏四十八城の一つに数えられた。
目井城は目井津の南方に聳える狼ヶ鼻に連なる標高120m程の山に築かれている。
主郭部は標高80m付近とされ、周囲に小高い地形を残しながら広く削平された平地が拡がる。そこからさらに南西の標高120m付近まで段々と曲輪状の平段が続いているが、尾根上は自然地形になっている。
主郭部から東端の狼ヶ鼻に向かって伸びる尾根にも曲輪が続いているが、大半は人一人がやって通れる程の細尾根で、尾根には所々堀切を設けて遮断している。先端の狼ヶ鼻にはかつて展望台が設置されていたようで、その残骸が残されている。
全体的に畑跡のような所も多くみられ、遺構は判然としない。尾根筋にはかつて遊歩道があったようで木組みの階段などが残されているが、現在は使われていないようである。
霧島神社の少し西側に水産加工センターがあり、その脇から山に向かって道が付いている。これを登れば狼ヶ鼻の展望台。(地図)
主郭部に近い登り口は宅地の奥にあり、お堂の脇から山へ道が通じている。(地図)
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