築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)頃に飯田肥前守祐恵によって築かれたと云われる。伊東氏四十八城の一つ。
天正5年(1577年)島津氏に敗れた伊東氏が日向を去ると、飯田肥前守は島津軍の策によって捕らわれ討ち取られた。
天正6年(1578年)長倉勘解由左衛門は都於郡城奪還の策を巡らせ蜂起したが、合図を間違え多くの戦死者を出して三納城に逃げ込んだ。三納城には八代駿河守、佐土原摂津守、湯地三河守らが立て籠もって島津軍の攻撃を撃退した。攻めあぐねた島津軍は囲みを解いて六ヶ野原に待ち伏せ、城兵が出てきた所を襲い、鎮圧したという。
三納城は三納川に面して南北に伸びた丘陵の頂部に築かれている。現在主郭部が公園として整備されている。
主郭は山頂にあり、緩やかに南北二段になっており、中央部に土塁の残欠のような土盛りが残る。主郭から南東へ降りた所に二郭があり、主要な曲輪はこの二つで成っている。
主郭から北へ伸びる尾根は細く、両側が急峻になっており、ここに数カ所小さな堀切を設けており、北端は北の小ピークの北側まで続いている。
一方南は山腹にある平城へと続く緩やかな尾根で、ここに大きな横堀を設けて遮断している。空堀の東側は林道になっており、西側はそのまま谷へと落ちている。
平城地区にある墓地に飯田肥前守の墓が残されている。
南下の道路沿いに三納城への道標が出ている。そこから車で登っていくと終点に駐車場がある。(地図)