築城年代は定かではない。
城主は日野氏で尼子氏に属していたが、永禄年間(1558年~1570年)頃には毛利氏に したがっており、この頃、毛利の武将杉原盛重によって手間要害の改修が行われている。
永禄5年(1562年)本城常光が毛利氏によって粛清されると、手間要害の日野氏をはじめ江美城蜂塚氏、長台寺城福山氏などが尼子方に復帰する事態となったが、永禄7年(1564年)頃には杉原盛重によって手間要害は落城し、杉原氏の家臣が在番した。
永禄12年(1569年)尼子再興軍が伯耆一円の諸城を攻めたが、手間要害は落城しなかった。
天正12年(1584年)杉原盛重が没した後、杉原氏の内紛が勃発、手間要害も毛利軍によって攻め落とされ、廃城となったという。
手間要害は標高331.7mの要害山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
手間要害は山頂を中心に曲輪群が各ピークに点在する形で拡がっており、城域自体は広いが曲輪間の連携は薄く独立性が強い縄張で、古い形態の城である。
主郭は山頂にあり神社があるが、南北に伸びる尾根に広い曲輪が連なる。南端の曲輪に一部土塁がついている。段曲輪の東側が登山道となっているが、西側も通路になっており、通路の間を段曲輪が続いている。
主郭の南峰にある曲輪も規模が大きく、こちらも南側に土塁がついている。
主郭の北峰にある曲輪は規模が小さくなるが、北へ伸びる段曲輪の西側に通路があり、北端の曲輪は東側に土塁が残る。
登山道はいくつかあるが、北東側にある池の脇から登るルートがわかりやすい。
北の県道から赤猪岩神社を目指して行くと手間要害の道標がある。そこから谷筋の道を奥へ進んで行くと終点に広い駐車場があり、その手前に登山口の標識がある。
最寄り駅(直線距離)