築城年代は定かではないが吉田氏によって築かれたと云われる。
吉田氏は肥前在庁系の鎌倉御家人高木氏の流れを汲み、南北朝時代に藤津郡吉田邑を恩賞として賜って移り住んだのがはじまりとされる。はじめ有馬氏に属していたが、天正4年(1576年)龍造寺隆信の藤津侵攻によって龍造寺方となった。
吉田城は本覚寺の東背後の山にあり、北へ伸びた尾根の先端に築かれている。
単郭の城で周囲を高い切岸で囲まれた主郭があり、南背後を堀切で遮断している。主郭の周囲は帯曲輪状の地形で北と東側に一条ずつ竪堀が確認できるが、開墾によって改変されている部分が多い。
北西麓の東吉田公民館とその南脇のお堂の周りに中世石塔群が集められている。
昔は東吉田公民館のところから登っていたようだが、現在は草木に覆われている。本覚寺の南、神社との間にある農道を登って行くと山上に行くことができ、そこから北へ降りるのが行きやすい。
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