築城年代は定かではない。 城主は志佐氏で、松浦清の次男貞を初代としており、松浦氏の勢力拡大とともに志佐一帯に勢力を伸ばしここを居城とした。
八代志佐義の時代には壱岐の湯岳を領有して朝鮮貿易も行っている。 明応年間(1492年〜1501年)志佐純勝のとき、大村氏と龍造寺氏の連合軍に攻められ落城、五島へ逃れたことにより直谷城は空城となった。
その後の平戸・田平合戦によって里城の峰氏は田平一帯を松浦氏に譲り直谷城に入り志佐の名跡を継いで志佐純元と名乗った。
寛永2年(1625年)志佐純昌のとき御厨に移封となり直谷城は廃城となった。
直谷城は吉井北小学校の背後に聳える標高175mの内裏山に築かれており、現在は県指定史跡として整備されている。
比高90m程の山であるが山は急峻で至る所が垂直の壁である。主郭はこの急峻な地形の山頂にあって広く西に天守郭、東に物見台と呼ばれる櫓台がある。大手は小学校から南の谷を登ってくるルートで、大手口は三重に堀と土塁を築き、南の尾根と主郭で挟撃できるようになっており非常に堅固になっている。
大手は小学校、搦手は西の林道にあり、搦手口の駐車場(地図)から歩けば殆ど登ることなく見学できる。
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