築城年代は定かではない。 はじめは高城を居城とした西郷氏の屋敷があった地とされる。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に参陣しなかった西郷氏は所領を没収され、替わって龍造寺家晴が諫早に入部し一万石余を領した。家晴の子直孝の時、諫早氏を名乗り諫早家は独立した大名であったが、直孝が病身で江戸でのご奉公ができないとの理由で大名を破棄し佐賀藩の家老となった。
諫早氏は中世より続く高城城を居城としていたが、五代茂門の時、財政難によって城が維持できなくなり、東麓に諫早陣屋を構えて居城とした。
諫早陣屋は高城城の東麓、現在諫早高校や市役所の地に築かれていた。 諫早高校内には佐賀藩主の接待などに利用されていた御書院が現存し、庭園が残っている。以前は学校内でもあることから見学は困難であったが、平成15年に高城回廊が整備され午前10時から午後4時まで散策することができるようになった。
高校の西側にある眼鏡橋は度重なる水害によって橋が流されたことから、天保9年(1838年)に架けられたもので、もともとは本明川に架かっていたが現在は国指定重要文化財としてその脇に移築されて残っている。
御書院(現存 書院)