天文4年(1535年)松浦丹後守親によって築かれたと云われる。 明応7年(1498年)惣領相神松浦丹後守政の居城大智庵城は平戸松浦弘定に攻められ落城し政は自刃して果て、その子幸松丸(丹後守親)は平戸に捕らわれていた。その後、遺臣によって奪還され唐船城で成長した幸松丸は永正9年(1512年)丹後守親と名乗り旧領の回復に努め、相神浦を奪還して飯盛城を築き居城とした。
天文12年平戸松浦隆信は南下して飯盛城を攻めたが和議となり一旦退いたが、永禄6年(1563年)再び飯盛城を攻撃、落城は免れたが相神浦の地が平戸松浦氏の手に落ち孤立したため、平戸松浦隆信の三男九郎を養子に迎え飯盛城を明け渡した。
飯盛城は相浦川の西岸に聳える標高259mの愛宕山の東の山腹に築かれていたという。 愛宕山の名は慶長元年(1596年)平戸藩主松浦隆信が長年にわたる戦の戦没者追悼と領内安全の為に愛宕勝軍地蔵菩薩を祀ったことに由来する。
飯盛城の明確な遺構は現在確認されていない。「長崎県遺跡情報システム」で遺跡の範囲に示されている地点を散策したところ、そこには石積で段々と築かれた屋敷跡があった。これはおそらく近年まであった屋敷跡だと思われるが不明である。空堀などの城郭遺構は見付からなかった。
愛宕山山頂には木ノ宮神社から登山道がある。飯盛城跡とされている地点にも道が通じているのだが言葉で説明するのは難しい。 道がありそうなので東麓から山へ通じる道を登っていた所、畑仕事をしていた古老がいたので道を尋ねるとやはり道があるという。しかしそれらしき道を確認できず、気が付くと木ノ宮神社から通じている登山道に合流してしまった。一旦山頂へ登った後、gpsを頼りに中腹あたりから斜面を下って目的地に付くと、そこに道があり、中腹の宅地前の小道へ出てきた。
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