肥前 飯盛城ひぜん いいもりじょう

城郭放浪記


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肥前 飯盛城の写真
掲載写真数
形態
山城(60m/-)
別 名
なし
文化財指定
なし/不明
遺 構
なし
城 主
相神松浦氏,平戸松浦氏
歴 史

天文4年(1535年)松浦丹後守親によって築かれたと云われる。 明応7年(1498年)惣領相神松浦丹後守政の居城大智庵城は平戸松浦弘定に攻められ落城し政は自刃して果て、その子幸松丸(丹後守親)は平戸に捕らわれていた。その後、遺臣によって奪還され唐船城で成長した幸松丸は永正9年(1512年)丹後守親と名乗り旧領の回復に努め、相神浦を奪還して飯盛城を築き居城とした。

天文12年平戸松浦隆信は南下して飯盛城を攻めたが和議となり一旦退いたが、永禄6年(1563年)再び飯盛城を攻撃、落城は免れたが相神浦の地が平戸松浦氏の手に落ち孤立したため、平戸松浦隆信の三男九郎を養子に迎え飯盛城を明け渡した。

説 明

飯盛城は相浦川の西岸に聳える標高259mの愛宕山の東の山腹に築かれていたという。 愛宕山の名は慶長元年(1596年)平戸藩主松浦隆信が長年にわたる戦の戦没者追悼と領内安全の為に愛宕勝軍地蔵菩薩を祀ったことに由来する。

飯盛城の明確な遺構は現在確認されていない。「長崎県遺跡情報システム」で遺跡の範囲に示されている地点を散策したところ、そこには石積で段々と築かれた屋敷跡があった。これはおそらく近年まであった屋敷跡だと思われるが不明である。空堀などの城郭遺構は見付からなかった。

案 内

愛宕山山頂には木ノ宮神社から登山道がある。飯盛城跡とされている地点にも道が通じているのだが言葉で説明するのは難しい。 道がありそうなので東麓から山へ通じる道を登っていた所、畑仕事をしていた古老がいたので道を尋ねるとやはり道があるという。しかしそれらしき道を確認できず、気が付くと木ノ宮神社から通じている登山道に合流してしまった。一旦山頂へ登った後、gpsを頼りに中腹あたりから斜面を下って目的地に付くと、そこに道があり、中腹の宅地前の小道へ出てきた。

最寄り駅(直線距離)
0.7km 上相浦駅
1.3km 相浦駅
1.3km 大学駅
1.4km 棚方駅
1.6km 真申駅
所在地/地図
長崎県佐世保市相浦町
付近の城(直線距離)
1.3km 肥前 武辺城
1.8km 肥前 三丸館
2.1km 肥前 陣ノ尾砦
2.1km 肥前 一本松砦
3.6km 肥前 小田の砦
4.0km 肥前 東光寺山城
4.8km 肥前 龍王城
4.9km 肥前 鼻繰城
5.0km 肥前 鳥屋城
5.3km 肥前 佐世保城
5.4km 肥前 瀬戸越城
5.7km 肥前 沖田城
5.9km 肥前 大智庵城
6.5km 肥前 於玖砦
6.5km 肥前 赤崎城
7.9km 肥前 特甲山城
8.2km 肥前 眼畠城
8.4km 肥前 石原山城
8.6km 肥前 前畑城
8.6km 肥前 上本船屋敷城
8.8km 肥前 俵ヶ浦城
8.8km 肥前 諫屋敷城
最終訪問日
2009年10月
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