築城年代は定かではない。応永24年(1417年)頃に大掾詮幹の三男義幹による築城、あるいは鎌倉時代に小田知重の三男光重が築いたという説などがあるが、いずれも確証はない。
戦国時代には小幡氏がいたが水戸城の江戸氏の支配下に置かれ、府中城の大掾氏との領地境に位置する小幡城は、重要な支城と位置づけられていた。
天正18年(1590年)小田原征伐に参陣しなかった江戸氏は、常陸の大半を安堵された佐竹氏によって瞬く間に滅ぼされ、この小幡城もその役目を終えたと推測される。
小幡城は寛政川に面した比高20m程の台地の東端に築かれている。 現在西側に東関東自動車道が通っているが、こちらが外郭で大手門があった。城内は深く幅広の空堀を迷路のように巡らせ、主郭を中心に周囲を固めるように曲輪が配置されている。
主郭は周囲を高土塁が巡り南に虎口を開いて土橋が架かる。曲輪内は広く、北側に井戸が残る。土塁の上は櫓台になる部分はなく、北西隅、南東隅がやや張り出している。
主郭の北西側に「変形武者走り」という変わった遺構が残る。ここは南北の空堀の間にある細長い曲輪で、空堀に面した部分を土塁とし中央に凹んだ通路を設けることで、堀底の敵に気付かれないようにする施設と推測されている。
茨城東高校の東南東に香取神社があり、その南の台地が城跡。北側に入口があり、そこに駐車できる。