建武3年・延元元年(1336年)鍛冶貞国によって築かれたと云われる。 水戸城主大掾氏の家臣鍛冶貞国は後の川和田入道で、水戸城の支城として築いた。
嘉慶元年・元中4年(1387年)鎌倉公方足利氏満に叛いて滅亡した小山義政の子が、一族とともに挙兵した難台山合戦では、大掾氏の当主が幼少であった為、十分な働きが無く、このため河和田城は江戸通高に与えられた。
応永33年(1426年)江戸通房は、水戸城主大掾満幹が府中城に赴いた留守中に水戸城を占拠し、江戸氏は水戸城を居城として春秋氏を河和田城主とした。
城は河和田小学校・天徳寺・報仏寺一帯で、本丸は前記3つの中央付近にあった。石碑と案内板が河和田小学校にあり、付近の道路沿いには土塁や空堀がいたるところに残っている。