築城年代は定かではない。
文明年間(1469年〜1487年)には長尾民部大輔能景(為景の父)の三男長尾但馬守景長の居城であったが、後に坂戸城へ移った。
景長のあとは高梨源五郎頼春が城主となった。この頼春は信濃国中野小館の城主高梨政頼の子で、長尾為景との縁で城主となった。その後、領民の一揆により城は放火されて頼春は討死、高梨城は廃城となったという。
高梨城は信濃川西岸の比高10m程の段丘の上に築かれている。 東へ張り出した段丘の先端を西側に空堀を設けて区画する縄張りで、三角形のようにとがった台地をl字の空堀で区画し、「殿屋敷」と呼ばれる主郭・「家老屋敷」と呼ばれる二郭・「家臣屋敷」と呼ばれる三郭を切り出している。
いずれも後世に開墾されていたようであるが、現在は主郭のみ標柱と案内板が設置され、低い土塁が現存している。
国道17号線と国道351号線との高梨交差点を北へ曲がり、国道351号線で北上する。1kmほど北上すると西側に越後製菓などが見え、比高10m程の台地の先端が見える。これが城跡で、東の麓の農道付近に広いスペースがあり、ここに道標が出ている。
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