稗生城の「稗」は草冠の付く字が正しい。
築城年代は定かではない。はじめ稗生氏の居城であったという。 その後は平子氏(たいらこ)(大楽とも)の居城となった。 平子氏は桓武平氏で、相模豪族三浦氏の一族が相模国久良岐郡平子郷を本貫地として平子氏を称した事に始まるという。
相模の平子氏がいつ頃、越後に入部したのかは定かではないが、越後守護上杉氏に従って入国したものと推測されている。 越後守護上杉家の重臣として活躍した平子氏は、永正4年(1507年)守護代長尾為景が上杉房能を排除しようとした際、房能とともに関東に逃れようとしたが、天水峠において追いつかれた房能は自刃、従っていた平子朝政もこれに殉じた。
平子氏はその後長尾氏に降り為景・謙信に仕えたが、天正6年(1578年)の御館の乱で上杉景虎に味方し、上杉景勝によって攻め滅ぼされた。
慶長5年(1600年)の上杉遺民一揆では、五智院の僧侶海龍が三千八百の兵を率いて立て籠もったが、間もなく鎮圧されたという。
稗生城は信濃川の東岸に聳える標高260mの城山山頂に築かれている。
稗生城は単郭の山城で山頂にある三角形の平地を主郭としている。特筆するべきは、山頂から伸びる四方の尾根を全て堀切で遮断し、山腹には畝状竪堀群を多用していることで、特に北西側の畝状竪堀群は、規模も大きく北尾根を遮断した三重堀切から伸びる竪堀と連動した畝状竪堀群を見ることができる。
北西麓にある極楽寺は城主の菩提寺と伝えられ、宇都宮神社も城主に由来するという。
登山口は二箇所あり、一つは北西麓の極楽寺、もう一つが国道17号線小千谷バイパスの道の駅「ちぢみの里」である。周遊すると帰りがしんどいので、極楽寺から登りそのまま極楽寺へ降りてきた。
最寄り駅(直線距離)