築城年代は定かではない。南北朝時代の菅名庄の豪族河内氏の本城である河内城、あるいは河内藤倉城と見るむきもあるが不明。現状の遺構は戦国時代のものである。
永禄7年(1564年)上杉謙信が関東在陣中に、会津の葦名盛氏が小田切弾正忠を大将として菅名庄に侵攻した際に、神戸城とともに葦名方が占拠したのが史料での初見とされる。 その後も度々葦名氏が菅名庄に侵攻しており、謙信時代に菅名庄の入口を固めるため、林田大隅守秀頼、丸田周防守高俊など謙信の馬廻衆が在城したという。
丸田高俊は御館の乱では上杉景虎方として、蔵王堂城にいたが、乱後に許され再び雷城に在城した。
雷城は早出川と仙見川に囲まれた標高377.9mの雷山山頂に築かれている。 北に福蓮寺城、南に神戸城があり菅名庄の入口を固める位置にある。
主郭は山頂にあってややl字形となり、西と北に虎口を開く。西の虎口は方形に凹んだ虎口で、北側はスロープが付いている。
主郭の北下に東西二段の曲輪があり、主郭北の虎口から降りると東上の段、西の虎口から降りると西下の段に降りる構造になっている。
ここから北西尾根にある四郭方面に降りる道はつづら折りで、一条の大きな竪堀がその脇を落ちている。竪堀を挟んだ反対側に竪堀側に土塁を設けた帯曲輪がある。
四郭は標高330m程の北西の尾根先で、土橋の架かる堀切で東西に分かれ、東側は更に裾に堀切を設けて遮断している。この四郭から西へ伸びた尾根には二条の堀切、北西に伸びた尾根には一条の堀切、北東に伸びた尾根にも一条の堀切を設けている。
登山道の入口近くにある永谷寺には、雷城落城の際に城主の一人娘菊姫が東院渕に身を投げ、永谷寺の大潮浮船和尚の功徳によって成仏し、以後、歴代住職が亡くなる七日前に丸い石を届ける「オトボ石」伝説がある。また、鎌倉時代後期のものとされる「五輪線刻塔婆」四基が残る。
北西麓の川内集落にある永谷寺を目指す。川内小学校を目指すと途中から道標が出ている。登山口はこの永谷寺から林道を入っていった所にある。林道を少し入った所で車止めの鎖がしてあり、そこに駐車場がある。登るルートは二つあり、いずれも四郭に至るので、行きと帰りで分けると良い。
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