天文16年(1547年)野辺沢(延沢)薩摩守満重によって築かれたと云われる。 野辺沢氏の出自は詳らかではないが天童氏に従っており、満重のときに野辺沢城を築いて本町館より移ったとされる。
満重の子が野辺沢(延沢)能登守満延で、天正12年(1584年)嫡男又五郎(後の光昌)に最上義光の娘松尾姫を迎え、最上氏に従ったことから天童氏は滅亡した。天正19年(1591年)満延が没すると光昌が家督を継いだ。
野辺沢(延沢)遠江守光昌は長谷堂城の戦いや庄内退治などに参加し、二万石を領したが、元和8年(1622年)最上氏が改易となると肥後国熊本藩加藤氏にお預けの身となり、熊本にて病没した。
最上氏に代わって鳥居氏が山形へ入部すると家臣の戸田玄蕃が城番として延沢城に入ったが、寛永7年(1667年)に廃城となった。
延沢城は標高297mの古城山山頂に築かれている。現在は国指定史跡となり登山道などが整備されている。
延沢城は山頂の本丸から北へ伸びた尾根に曲輪を配している。 本丸は山頂にあり、北に大手、南に搦手の虎口を開く。北の大手虎口は桝形で石積が成されていたようで切石が見えている。
本丸の北の曲輪は西に大手、東に搦手の虎口を開く。西の大手は内桝形で外から入ると正面に一段小高い方形の土壇があり、南北両側に通路が分かれる。東の搦手は食い違いになっている。
ここから北へ段々と曲輪が連なり、「天人清水(てんにんすず)」と呼ばれる井戸のある大堀切に至る。この堀切の西側は二重の竪堀が落ちており、現在の登山道はこの堀切部分と大手門に途中で分かれている。
大堀切の北側にも曲輪があり、堀切側に土塁が付いている。北側は堀切があり、そのまま東側へ竪堀として伸びている。
山頂の大手門から西麓へ降ると登山道入口の常磐中学校に出るが、この辺りが南館(みなみだて)と呼ばれ居館があった所である。この裏側に「三の丸家中屋敷跡」という標柱が建っている。麓の大手門はそこから道なりに降った所にあり、県道沿いに「大手門跡」の標柱が建っている。
野辺沢氏の菩提寺である龍護寺の山門は、寛永7年(1667年)に廃城となった延沢城の三の丸大手門を移築したものである。
常磐中学校に登山道入口がある。その下にある公民館の駐車場が利用できる。
中学校へ登っていくと登山道入口があるが、この道は新設されたもので、途中で旧道と合流する。帰路この旧道を降りていけば三の丸家中屋敷に行くことができる。登る途中に一箇所分岐点があり、一つは大手門、もう一つは大堀切にある天人清水に至る。
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