築城年代は定かではないが応仁年間(1467年〜1469年)に大井義久によって築かれたと云われる。義久は信濃国大井城主大井朝光の後裔といわれるが定かではない。大井氏は後に矢島氏を名乗り由利十二頭の一人となり、一族と考えられる仁賀保氏と争う事となる。
矢島氏が仁賀保氏に敗れて滅亡すると仁賀保氏の家臣菊地長右衛門が城代となった。しかし関ヶ原合戦後、由利郡は最上義光の所領となり、仁賀保氏は常陸国武田に移封となる。慶長7年(1602年)最上氏の家臣楯岡満茂が本荘城主となると弟楯岡満広が三千石を領して八森城に入ったが、元和8年(1622年)最上氏は改易となる。
元和9年(1623年)由利十二頭の一人であった打越光隆が常陸国新宮より三千石で入封する。しかし、寛永12年(1635年)打越光久に嫡子なく改易となった。
寛永14年(1637年)讃岐国高松藩主生駒高俊はいわゆる「生駒騒動」により改易となり、寛永17年(1640年)に矢島にて一万石の堪忍領を賜わり陣屋を築いた。万治2年(1659年)生駒高清は弟俊明に二千石を分与し、矢島藩は八千石となって交代寄合となった。
城は西の山塊から東へ伸びた丘陵の先端に築かれている。現在残る遺構は生駒氏の陣屋時代のもので、矢島小学校と矢島神社が城域であり、小学校の西側に大手門と堀の跡が残る。