築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)頃に大友宗麟によって築かれたと云われる。
豊後の大友氏が筑前の志摩地方の拠点として築いたのが柑子岳城で、大友氏一族の臼杵新助鎮続が志摩郡代を兼ねて柑子岳城に入った。永禄11年(1568年)鎮続が宝満山城の高橋鑑種を攻めて大宰府へ出陣した隙に、高祖山城主の原田隆種に攻められ柑子岳城は奪われたが、急遽引き返した鎮続は激戦の末に取り戻している。
元亀2年(1571年)鎮続は城代を辞して豊後へ戻ると、後任として臼杵鎮氏が城代となった。元亀3年(1572年)臼杵鎮氏は今津毘沙門天を参拝した原田了栄を待ち伏せして襲撃したが失敗した。同年原田氏と臼杵鎮氏は池田河原で戦い、臼杵氏は敗れて鎮氏は泊城へ逃れる途中、平等寺で自刃した。
その後、再び臼杵鎮続と木付鑑実が城代として柑子岳城へ入った。天正7年(1579年)原田氏の攻撃を受けた木付鑑実は柑子岳城に籠城して立花山城に援軍を求めたが、支えきれずに立花山城へ逃れ、柑子岳城は原田氏の手に落ちた。
天正14年(1586年)豊臣秀吉の九州征伐の後、原田氏は加藤清正に従って肥後へ移り、柑子岳城は廃城となった。
柑子岳城は博多湾の西にある標高254.4mの柑子岳山頂に築かれている。現在はハイキングコースとして整備されており、山頂まで遊歩道が付いている。
柑子岳城は山頂の(上ノ城)と南峰の(下ノ城)の二つの曲輪群で構成されている。 いずれの曲輪群も南北に伸びた尾根に小さな段差の曲輪を配したものであるが、土塁や石積などは付いていない。
北の上ノ城が主郭で展望が開けており、長浜海岸や博多の市街地を一望することができるが、残念ながら天候が悪く「あられ」が降ってくる有様で、早々に樹木が茂った登山道へ逃げ込むのであった。
主郭の北端から北西尾根に降りていくと堀切が一条あり、その下から竪堀状の溝が登山道脇に落ちている。鞍部まで降りると不鮮明な堀切が一条ある。
南嶺の下ノ城から東尾根に降りていくと最大の見所である放射線状になった畝状竪堀群が残っている。畝状竪堀群は標高160m付近から200m付近の尾根の南北両側にあり、畝状竪堀群の下からさらに南東へ伸びた尾根を二条の堀切で遮断している。
登山道は西にある草場集落側に二箇所あり「一の谷登り口」と「村上登り口」で周遊できるようである。駐車場は南の一の谷登り口にある。(地図)
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