築城年代は定かではない。長野氏の城で、毛利方であった長野氏は永禄8年(1565年)までに大友氏に攻められ降伏、永禄11年(1568年)には逆に毛利氏の吉川氏、小早川氏らの大軍に攻められ落城した。これによって長野氏は企救郡の勢力を失い京都郡へ移った。
小三岳城は標高307mの山頂に築かれている。北の谷を挟んで同じく長野氏の大三岳城があり、併せて三岳城とも呼ばれる。
小三岳城は標高307mの山頂部に主郭があり、西と北東の尾根に曲輪が伸びている。西は二条の堀切を経て曲輪が続き、その先にある鉄塔の東西両側に堀切がある。曲輪の西端部分の南には竪堀が一条、この辺りはシダ藪であるが、他にも竪堀らしき地形があり、畝状竪堀の可能性もあるが藪を刈ってみないと確認できない。
畝状竪堀は主郭の南側面と北東の尾根先にもある。主郭の南尾根は二条の堀切があるが、内側の堀切の脇に短い畝状竪堀の痕跡が確認できる。北東へ続く尾根には段曲輪が続いているが、その先端に畝状竪堀がある。この城で現状確認できる一番明瞭な畝状竪堀である。
案内板は三岳梅林の所ある。その谷から登っていけそうな気もするが、北東の谷にある林道終点から吉川城、三角城、大三岳城、小三岳城と行くことができる。この行程を歩くと一日が終わる。
最寄り駅(直線距離)