詳細不明。『芸藩通志』には「羽倉村にあり、末近四郎三郎、植野村の城より、ここに移る」とする。末近四郎三郎は末近三郎四郎信賀のことと思われ、天正10年(1582年)羽柴秀吉に水攻めされた備中高松城に籠城しており、城主清水宗清とともに開城のさいに切腹しており、その後は嫡子光久が家督を継いでいる。
羽倉城は現在圃場整備によって消滅し水田となっている。『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』によれば、54m×44mの曲輪の規模で四方に堀が巡っていたようである。
南方の真浄庵土居屋敷には末近氏の墓とされる「殿様墓」があり、末近信賀の辞世の句碑がある。