築城年代は定かではない。南北朝時代に宗像大宮司の一族によって築かれたと云われる。 宗像大宮司の一族、宗像六郎氏業と長野小太郎氏郷が長野村地頭職を下地中分していた。
応永7年(1374年)長野城は南朝方であったため、今川満範の軍勢によって攻略された。
長野城は標高102mの山に築かれていた。『長崎県中近世城館跡分布調査報告書』によれば主郭は果樹園となっていたようであるが、現在は果樹園ではなくなっている。
堀切など明瞭な遺構はなく、石積された平地が残るのみである。周囲も果樹園であり石積は至る所で確認できるが、主郭の一部石積は周囲よりやや大きな石を利用しているようである。
北西下の墓地まで車であがれて駐車できる。そこから南に続く農作業道で主郭まで行くことができる。
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