築城年代は定かではないが天正7年(1579年)頃に三木自綱によって築かれたと云われる。また一説に永禄年間(1558年〜1570年)に自綱の父良頼の頃に築かれたとも云われる。
三木氏は応永18年(1411年)京極高員の代官として三木正頼が益田郡竹原郷に下向したことに始まると云われる。四代三木直頼のときに益田郡の大半を横領して桜洞城を築いて居城とした。五代良頼の時代になると大野郡へ進出して飛騨国司の姉小路家を滅ぼし、六代自綱のときには高原諏訪城主の江馬氏などを降して飛騨大半を平定した。
天正13年(1585年)三木氏は秀吉と対立する越中の佐々成政と結んだことから、秀吉の命を受けた越前国大野城主金森長近の侵攻を受けた。このとき自綱は広瀬城におり、松倉城には秀綱が籠城して金森軍と戦ったが内応者が現れ落城し、秀綱は城を脱して信濃へ逃れる途中に土民に襲われ死んだという。
三木氏の後に飛騨に入封した金森氏は高山城を居城として築き、松倉城は廃城となったと云われるが、現在残る主郭部の石垣などの遺構は、他の三木氏に関係する城から高石垣などの遺構が確認できないこともあり、金森氏など織豊系の武将によって改修されたものとも考えられている。
松倉城は高山市街地の南西に聳える標高856.7mの松倉山山頂に築かれている。 現在は県指定史跡として整備されている。
主郭は山頂にあり方形の曲輪で西から南下に外曲輪が付く。虎口は南にあり外曲輪から東下の二ノ丸へ降りる石段が付く。主郭の東下に二ノ丸、南西下に三ノ丸があり、これらの部分が総石垣造りとなっている。
二ノ丸から東へ伸びた尾根、北東へ伸びた尾根ともに平段遺構があり、その先端に堀切が残る。松倉山の北東麓にある「飛騨民俗村 飛騨の里」に辺りには松倉城の武家屋敷群があった所である。
登山道はいくつか整備されているが、車の場合は西尾根を通る林道の峠に松倉シンボル広場(地図)があり、そこに駐車場がある。ここから尾根道を数分歩くと主郭まで行くことができる。
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