築城年代は諸説あり定かではないが、一般的には天文年間に平野豊後守安室によって築かれたと云われる。 平野氏は安室の父右衛門尉の時に信濃国より飛騨国へ入国し三仏寺城主となり、安室の時代に鍋山城を築城(または修築)してここに移り、鍋山氏を名乗ったと云う。
安室は家の安泰をはかるため、実子の左近大夫を差し置いて三木氏より三木自綱の弟顕綱を養子に迎えたが、顕綱は安室を毒殺して左近大夫をも追放した。
追放された左近大夫は越前国大野城の金森長近を頼って落ち、天正13年(1585年)羽柴秀吉の命によって飛騨国へ侵攻した金森長近に加わって三木氏を攻め、再び飛騨へ復帰することとなった。しかし金森氏の飛騨入封後、その処遇に不満があり広瀬氏・江馬氏などと呼応して一揆を起こすが、金森可重によって鎮圧された。
飛騨国を制圧した金森長近はこの鍋山城へ入って政務を行ったが、高山城を築いて居城を移し廃城となった。
城の築かれている鍋山は北と南に頂部を持つ山で、北側の山頂に主郭部を構え、南の頂部に出丸を構えている。
出丸は南の山頂に築かれているが、頂部の削平地は帯曲輪がついて二段となっているが極めて狭い。ただ周囲は岩場になっており地形は要害である。出丸から主郭部へ向かう尾根には堀切があり、その南側に半円状の削平地があって堀切を越えてくる敵兵を迎え撃つようになっている。尾根には西から登ってくる道があり、その交差部分に土塁が築かれている。
主郭部は西に本丸があり、わずかながら石垣が残っている。本丸を越えて西へ向かうと尾根は武者走りとなり、尾根先に二の丸がある。
大手は主郭部と出丸の間の谷を南東方向に降りた所にあり、途中には屋敷跡があって入口には四天王神社が奉られている。
高山方面から国道158号線を東へ行くと、ちょうど鍋山城の西で国道361号線とy字に分岐する。これを国道361号線へ行き谷合橋交差点で左折して北上する。この道は国道158号線と国道361号線を結ぶ道であるが、左折後少し北上したあたりで左側の山裾を見ると神社らしきものが見え、それが大手入口のある四天王神社で、ここから登ることができる。
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