築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)に三木直頼によって築かれたと云われる。一説には直頼の祖父久頼によって築かれたとも云われる。
三木氏は応永18年(1411年)姉小路尹綱の乱を鎮圧した功によって、京極高員(高数)が足利幕府より飛騨国竹原郷を得ると、三木正頼が京極氏の代官として竹原郷に入部したことにはじまる。
二代三木久頼の代に主家の没落に乗じて竹原郷を横領し、四代三木直頼は三木氏中興の祖といわれ、北飛騨の江馬氏や姉小路氏などと接触して三木氏の勢力を拡張する。六代三木自綱の代に全盛を極め、松倉城を築いて夏は松倉城、冬は桜洞城を居城とするようになり、それぞれ夏城、冬城と呼ばれた。
天正10年(1582年)江馬輝盛が南飛騨へ侵攻すると、吉城郡荒城川で迎え撃ち大将江馬輝盛を討ち取って江馬氏の本城高原諏訪城を落とし、飛騨の大半を支配下に置いたが、 信長死後、越中の佐々成政に与して羽柴秀吉と対立することとなり、天正13年(1585年)羽柴秀吉の命によって飛騨に侵攻した越前国大野城主金森長近を自綱は高堂城、広瀬城で迎え撃ったが敗れ降伏。自綱の次男秀綱の籠る松倉城も落城して三木氏は没落した。
城は飛騨川に桜谷川が合流する地点の南側の高台に築かれている。 現在高台の上は畑として開墾され、一部はそれも荒廃している。
高台の西側に桜洞城の標柱が建ち、土塁・空堀・石積の遺構がわずかに確認できる程度である。
城の北側にある桜谷公園にある地図(一番はじめの橋の近く)を確認すると桜洞城への道が書いてある。そこの橋を渡って右側奥に階段があり、それを登って西へ進むと城址。
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